パパも着られるマタニティウェア。ザ・ノース・フェイスが男女兼用レインコートに込めた思い
妊娠・出産、子育ても、大いなる“冒険”
妊娠期の大きなお腹に対応し、産後は赤ちゃんを抱っこやおんぶしたまま着られる。サイズ感やシルエットはすっきりとし、男性が着ても抵抗がない。それが、ザ・ノース・フェイス(以下、ノースフェイス)が2021年に発売したレインコート「MTY Pickapack Rain Coat」だ。妊娠中の大きなお腹でもすっきり着られ、出産後は男女兼用で使えるレインコート「MTY Pickapack Rain Coat」。子どもを抱っこ・おんぶした状態で動きやすく、大人にも子どもにも快適につくられているという
価格は4万9,500円(税込)と決して安くはないが、アウトドアメーカーとして培ってきた機能性と工夫、何より「男女兼用で長く使える」点が支持され、発売時には売り切れの店もあった。子連れで行くアウトドアシーンもしっかり想定。開発を担当した矢野氏が自身の子どもを背負って「キャンプ場でしばらく雨に打たれてみたりもした」という。ノースフェイスは米国発のブランドだが、日本ではゴールドウインが1994年に国内商標権を買い取り、日本独自の商品開発を展開。国内で扱う商品の98%が日本オリジナルだという。そもそもなぜ、ノースフェイスがマタニティウェアを開発したのだろうか。開発に至った理由のひとつは、ブランドの理念にある。ノースフェイスは、アスリートだけでなく「すべての人の冒険をサポートする」ことを目指している。冒険とは、極地に行くことだけではない。日常にもさまざまな冒険や挑戦があるという考えから、快適さや動きやすさといった機能性をカジュアルウェアにも生かし、ラインナップを拡充している。「妊娠出産、そして子育ても、大きな冒険」だと矢野氏。マタニティラインの背景には、そんな冒険を支えたいという思いがある。矢野氏「その人にとって未知なることに果敢に取り組むとき、それはどんなことでも冒険です。そう思うと、妊娠出産と子育ても、未知なることの連続。その冒険を応援したい気持ちが、マタニティラインの開発に結びついています。子どもが生まれると、それまでインドアだった人も外遊びの時間が増えますし、普段の送り迎えも雨の日や寒い日だと大変です。そうしたときに、ノースフェイスの機能性が役立ちます。妊娠出産をきっかけにアウトドアに興味を持って、お子さんと外に出ていっていただけたら、という思いがあります」ゴールドウイン
「今だけだから」という買い方を問い直す
冒険を支えることと併せて、ブランドの根底にある「ロングライフ」の考え方も、マタニティラインに反映されている。すぐ使えなくなるものを量産するのではなく、良質なものを提供し、長く使ってもらう。今でこそサステナビリティという言葉も一般化したが、ノースフェイスではブランド設立時から、環境保護の観点に基づいて長く使えることを重視し、徹底して具現化してきた。THE NORTH FACE 米国のサイト。ブランドの根底には自然への敬愛がある。1966年にサンフランシスコで誕生、日本では1978年よりゴールドウインが輸入販売しているが、自然保護を大切にする姿勢は一貫している
矢野氏「妊娠出産では、体型の変化も含めてどうしても女性の側にさまざまな制約がかかります。でも、産後の子育ては女性だけが担うものではないですよね。男女兼用で使えるウェアなら、女性ばかりに負担が偏らない育児の形を後押しできるのではないかと思ったんです。男女兼用なら、プロダクトを使う機会が増えます。それに、抱っこやおんぶの時期が終わっても普通のユニセックスウェアとして着られれば、さらにロングライフで使っていただくことにもなります。なので、いずれ実現したいと温めていました」一般的なマタニティウェアにも“産後も使える”と謳う商品もある。しかし、妊娠期に使うと体型の変化で生地が伸びてしまったり、デザインが過度に女性的だったりと、結局その後は使いにくい・使いたいと思えないことも多い。そのため、仕様や素材を工夫して、産後も長く使える商品に仕上げようと考えた。コンセプトとプロトタイプの生みの苦しみ
「妊娠期の女性が快適に過ごすために高機能が役立つ」との考えから、マタニティウェアのアイデアは度々社内で議論されていたという。近年、グローバルで女性向け商品を強化する流れを受けて、具体的な開発に着手することが決まった。この担当に抜擢されたのが、企画職に異動してわずか半年だった矢野氏。当時、企画チーム内で唯一の出産経験者だったことから任命された。矢野氏「興味はありましたが、当時の事業トップから『じゃあ矢野さん担当で』と言われたときは、まさか私が、と思いましたね。トップダウンのやりやすさがあった半面、『ノースでマタニティ?』と社内のメンバーにも『?』が飛び交い、大きなプレッシャーもありました」「ノースフェイスのマタニティとは何か、どういうものであるべきか」を考えるところから、企画がスタートした。まず着手したのは、社内にいる子育て中の女性へのヒアリングだ。アンケートや座談会を通して、どんなマタニティウェアを買ったか、どういった課題があったかを聞いていくと、思いのほか「買わなかった」人が多かった。理由は「着たいものがない」からで、多くの人はメンズサイズなどを着て過ごしていた。矢野氏自身もまた、耐久性やデザインの点で、既存のマタニティウェアに満足していなかった。矢野氏「何でもそうですが『今だけだから』と思うと、あまりこだわらず、消耗品と割り切ってモノを選びがちです。でも、環境保護とロングライフの考え方からは、今回のマタニティラインをそのように選んでいただきたくはなかったんです。高価格帯になっても機能とデザインにこだわり、お子さんと一緒にフィールドに出て長く使ってもらえるものにしたいと考えました」マタニティラインの特設サイト
コンセプトは固まったものの、社内にはマタニティウェアの開発ノウハウはない。デザイナーやパタンナーも未経験だった。本来なら、実際に妊娠している女性の協力の下、ボディスキャナーを用いた体型調査をしたいところだったが、妊娠中という大事な時期に参加してもらうのはためらいがあった。普段から商品開発の頼みにしている、契約アスリートにも妊娠中の女性はいない。そこでアンケート調査と並行して、富山にある「ゴールドウイン テック・ラボ」の研究者に協力をあおぎながら、妊娠中の体型変化に関する論文やデータをかき集めた。製品に盛り込みたいアイデアをまとめ、企画とデザインの最小メンバーで仕様設計を検討。パタンナーを交えて型を起こした。通常は1日にいくつもの型を起こすところ、マタニティに関してはひとつのプロダクトに1日がかりで試行錯誤した。矢野氏「ある程度のサンプルができたら、社内やその家族など身近なところから妊娠中の方を探して、テストとフィードバックをお願いしました。その意見をもとに、パタンナーにまた設計し直してもらって。『こうしたい』という最初の発想は私からでしたが、完成したのはチームメンバーのおかげです」そうして生まれた第一弾のプロダクトは、飛ぶように売れたという。直営店では専用の什器やお腹にパッドをつけたマネキンなどを用意していたが、売り切れが続出し、その出番がなかったほどだ。矢野氏「一般発売から10カ月ほど前の展示会で紹介したところ、卸先のバイヤーの方々から、予想を上回る反響がありました。直営店と自社ECのみで扱う想定だったのですが、卸先から『ぜひ』と受注を多くいただいて。そこで初めて手応えを感じました。本当のニーズというのは本人も気づいていないし、言語化もされていないという話をよく聞きます。このときの反応から、解決策を具体的に提示することで、潜在的なニーズに気づいてもらえることがよくわかりました」第一弾として開発したダウンコート。価格は8万9,100円(税込)と高額だが、防寒など高い機能性と妊娠期から産後まで長く使えることでヒット。ベビーカバーは単体で抱っこひもやベビーカーにも付けられ、お得感がある
産後の育児は、女性だけのものじゃない
第一弾を実際に発売してみて、矢野氏がいちばん驚いたのは「男性が妊娠中のパートナーを連れて来店するケースが多かったこと」だという。ノースフェイスがマタニティ、という意外性とそのクオリティの高さは数多くのメディアで紹介され、普段ノースフェイスを愛用する男性層が注目したのだ。矢野氏「これまでノースフェイスに縁がなかった方が『夫が勧めてくれるから』と商品を手にとってくれるケースも多かったようです。思った以上に、男性層が妊娠出産と育児に関心があるのだというのは発見でした。この2年でさらに世間の認識は変わりましたが、2019年の時点ですでに予想を上回っていました」「本来、子育ては男女の双方が関わるもの。だから、産後に男女兼用で着られるものを」という開発当初からの思いが受け入れられる感触がつかめた。引き続き女性向けで2020年秋冬物を進めながら、2021年春夏を目指して男女兼用のウェアを検討。そのころには、男性の育児参加とユニセックスウェアの考え方に社内からも共感が集まった。本来は、と思いながらも女性だけのサイズ展開とデザインで開発を進めていたのは、もどかしかったと矢野氏は話す。矢野氏「女性のサイズでダウンコートを企画しながら、子どもを抱っこして防寒したいのは女性だけじゃないよな、と思っていました」マタニティラインのサイトには、各プロダクトの使い方の解説動画が。たとえばダウンコートなら、最新シーズンでアップデートした点も含め、細かな特徴も紹介している
最初のプロダクトをレインコートにしたのは、保育園や幼稚園の送り迎えを両親で分担する家庭が増え、男女兼用のニーズが高いと考えたから。加えて、キャンプなどのアウトドアシーンで男性が活躍することを想定したからだ。矢野氏「アウトドアでは、荷物を運んだりテントを立てたりと、パパが動くことが多いですよね。ヒアリングを重ねると『家だとやらないけれど、キャンプだとパパが食器まで洗ってくれる』といった話もありました(苦笑)。一方で、パパはアウトドアに行きたいけれど、ママが躊躇しているという話も。そうした声から、子どもを抱えて動けるレインコートがあれば、キャンプなどに出かけやすくなると思ったんです。パパが子どもをおんぶしてあれこれ動いてくれるなら、ママも行く気になるんじゃないか、と」プロダクトによって家族間の小さな不満やためらいが解消され、子連れのアウトドアシーンが広がる。顧客の課題を解決するだけでなく、新しい機会が生まれることを見越してのレインコートだったのだ。親の使い勝手だけでなく、子どもの快適性も重視した。たとえば、子どもの視界が暗くならずに外が見えるよう、ベビーカバーの頭の部分は透明に。周囲の人から見たときに「子どもを抱いている」ことがわかりやすいという安全性の観点もある。雨の日に、ベビーを背負った状態で大きなポンチョをかぶっている人の姿をよく見かけていたため「ベビーの姿が外から見える」仕様はマストだったという
矢野氏「ベビーのフードには空気穴を開けたい、でも雨は入れたくない(笑)。そんな矛盾をパタンナーさんに何とか形にしてもらいました。完全防水ではありませんが、人工気象室でのテストや実際の雨の中でのテストを通して、滅多なことでは水が染み込まないことが証明できています」大人と子どものフードは、不要なら襟にしまって立ち襟になる。これは既存商品の機能の応用だが、たとえば「ベビーカバーを本体に着脱するファスナーの縫い終わり」を部分的に開放して、襟ぐりが引っ張られないようにする、などは独自の仕様だ。こうした工夫は、ノースフェイスブランドの新たな資産となり、他の商品にも活かせる。本体とベビーカバーを接続するファスナーは、端まで縫い込んでしまうと襟ぐりが引っ張られるとわかり、あえて固定していない