行動経済学の基礎知識
仕事の締め切りが守れない、浪費して貯蓄できない、健康管理ができない、ルール違反や不正行為の誘惑に負けてしまう。私たちは、ビジネスでも日常生活でも、こうしたさまざまな意思決定や判断の誤りを犯してしまいます。2018年にノーベル経済学賞を受賞したアメリカ・シカゴ大学のリチャード・セイラーは、これらを総称して、誤行動(Misbehaving)と呼びます。行動経済学の目的は、誤行動が起きてしまう心理学的なメカニズムを明らかにした上で、その対応策を設計し提案することにあります。本連載では、行動経済学の基本的な知見を紹介し、その利用方法について考えていきます。第1回目は、判断や意思決定の根本にある認知処理システムについてです。
もくじ
第1回:速い思考と遅い思考
1. 2頭立ての認知処理システム
人間の認知資源には、大きな制約があります。その行動の合理性は限定されたものでしかありません。アメリカのハーバート・アレクサンダー・サイモン(1978年ノーベル経済学賞を受賞)は、これを限定合理性と呼び、合理性を前提とした従来の経済学を批判しました。認知処理システムの問題は、この限定合理性の原因に関わる重要な問題であり、行動経済学の出発点です。
私たちの認知システムは、良くも悪くも、コンピューターのように矛盾なく最適解を選んでくれるマシンではなく、全く違う機能を持った2つの処理システムから成り立っています。1つは、情動的な直感的処理を行うシステム(システム1)。もう1つは、熟慮して理性的な処理を行うシステム(システム2)です。
2つのシステムは、非常に対照的な性格を持っています(表1)。システム1の処理は、無意識のうちに自動的に行われ、その時々の文脈やストーリーに影響されるのに対して、システム2では、論理演算の規則に基づいた熟慮的な処理が意識して行われます。
表1:2つの認知処理システム(参考:キース・E・スタノヴィッチ、心は遺伝子の論理で決まるのか、みすず書房、2008、表2.1を参考に作成)システム1 (速い思考システム) | システム2 (遅い思考システム) |
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行動経済学の創始者の一人、ダニエル・カーネマン(2002年ノーベル経済学賞を受賞)は、その名著「ファスト&スロー」のタイトルにあるように、疲労なしに高速で行われるシステム1の処理を「速い思考」、消耗を伴いながらゆっくりとしか行えないシステム2の処理を「遅い思考」と呼んでいます。早合点や拙速がシステム1に任せた文字通り速い判断であるのに対して、ゆっくり考えるのはシステム2による遅い判断です。
システム1は、直感に任せてさまざまな判断を軽快にこなしていきます。ただし、それだけにそこにはバイアス(意思決定の誤り)が伴います。システム2がゆっくり考えて、判断を正しく修正すればよいものの、……
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2. 直感タイプか熟慮タイプか
判断や選択のパフォーマンスは、システム2の熟慮処理がシステム1の直感処理をどれだけうまくモニターできるか、言い換えると、その人が熟慮タイプなのか直感タイプなのかによって大きく違ってきます。これは、簡単なクイズを使うことで、その人がどちらのタイプなのかをおおよそ見分けることができます。イエール・ビジネススクールのシェーン・フレデリックが考案した認知的熟慮テスト(CRT:Cognitive Reflection Test)です。
熟慮度を測るテスト-認知的熟慮テスト(CRT)は、以下に挙げたので、ぜひトライしてみてください(正解は本文最後を参照)。どれも小学生が理解できるようなクイズです。しかし、正解するのは簡単ではありません。早とちりしてしまう直感タイプの人と、よく考えて正しい答えを導く熟慮タイプを見分けるために、「ひっかけ」が仕組んであるからです。(参考:Frederick, S. Cognitive reflection and decision making、Journal of Economic Perspectives 18、2005をもとに、日本人用に改変して作成)
<クイズ> 1:バットとボールが合計で11,000円するとします。バットはボールよりも10,000円値段が高いです。では、ボールの値段はいくらでしょうか。 答( )円
2:ある部品を5つ作るのに、5台の機械を使って5分かかります。では、その同じ部品を100個作るのに、100台の機械を使うと何分かかるでしょうか。 答( )分
3:ある公園の雑草は毎日倍になります。何の手入れもしなければ、その公園全体は48日で雑草に覆われてしまいます。では、公園の半分が雑草に覆われてしまうまでには、何日かかるでしょうか。 答( )日
例えば問1で、バットとボールの値段の合計が11,000円で差が10,000円といわれると、人はすぐにボールは1,000円と答えたくなります。これに引っかかるのが直感タイプ、引っかからずに考えられるのが熟慮タイプです。こうして3問中、正答数が多い人ほど、熟慮システムの監視がしっかりしており、少ないほどその監視が甘い直感タイプだと判定されます。
世界中でこのテストが行われてきた中で、……
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3. 直感タイプほどまずい選択
システム2の監視が甘く、システム1で即断してしまう直感タイプの人は、現在指向的で衝動性に駆られる傾向がある上、高いリターンが望める場合でも、それに見合ったリスクを取ることができません。将来のことを考えて衝動を抑えたり、冷静にリスクを見積もったりするには、システム2の熟慮処理が必要です。直感タイプの人は、熟慮処理が面倒なためできません。その結果、合理性という観点から見た選択や行動の質は低くなります。
自分のスキルや能力、仕事における計画の実行可能性を見積もる場合にも、同じ問題が起きます。直感タイプの人は、システム1による甘い自己評価をそのまま信じてしまうので、往々にして自信過剰に陥ります。根拠のない自信が、行動の質を再び悪化させることになります。
実際に、個人個人のさまざまな選択や行動の質を調べてみると、多くの場合、直感タイプ(CRTで全問不正解者)は熟慮タイプ(CRTで全問正解者)よりも劣っています。図2はその一例です。喫煙率(a1)、適正体重者(低体重でも肥満でもない人)の比率(a2)、債務整理経験者の比率(b1)、過去5年の株式投資リターン(b2)のどれをとっても、男女とも直感タイプの方が劣っているのが分かります。こうした傾向は、年齢、所得、学歴など他の要因の効果を除いても変わりません。
図2:選択の質-直感タイプvs熟慮タイプ(参考:NTT人間情報データ2018より作成)ただし、これは……
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4. 行動経済学の本論へ
今回は、私たちの判断の偏りや意思決定の非合理性、つまりその限定合理性が、認知処理システムの2重性に起因していることを説明しました。システム1に頼っている人、言い換えればシステム2をサボらせている人ほど、選択のパフォーマンスが低くなります。さらに同じ人であっても、選択肢の状況や、その人自身のコンディションによって、システム1の直感処理が野放しになってしまうことが分かっています。
行動経済学の関心は、主に以下の3つの問題にあります。
以降の連載では、……
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第2回:ヒューリスティックのわな(前編)
前回は、認知処理システムについて紹介しました。私たちは判断を行うとき、全ての材料を細かく検討するのではなく、おおよその目算で済ませます。熟慮システム(システム2)を立ち上げて考えるのではなく、直感システム(システム1)によって大体の判断を下します。ハーバート・アレクサンダー・サイモン(第1回参照)は、こうした直感による大ざっぱな判断を、ヒューリスティックと名付けました。ヒューリスティックによる判断は、システム2による合理的な判断からは外れたものになります。そうであっても、平均すればゼロになるようなランダムなものであれば問題ありません。しかし、多くの場合、それはシステマティックなエラー、つまりバイアスを伴うため、私たちの意思決定や行動を狂わせます。今回と次回は、3つのタイプのヒューリスティックを取り上げます。
1. 「それらしさ」に引きずられる-代表性のヒューリスティック
行動経済学では、物事の「それらしさ」のことを、代表らしさ、または代表性といいます。そして、それらしさによって物事の起こりやすさや確率を見積もることを、代表性のヒューリスティックといいます。要するに、ステレオタイプによる判断です。
私たちが最も陥りやすい判断ミスは、物事のそれらしさに引っ張られ、その起こりやすさや確率を判断してしまうことです。
例えば、ある人物の性格について、規則にうるさく神経質なところがあると説明されてから、その人の職業を想像する場合を考えてみましょう。多くの人は、その人が販売店員であるよりも、会計士である確率を高く見積もります。規則にうるさく神経質という性質が、販売店員よりも会計士の方に、それらしいと考えるからです(図1)。
図1:職業によるそれらしさ(イメージ)感覚的なそれらしさが、客観的な確率をうまく反映していれば問題ありません。しかし、代表性のヒューリスティックには、それらしい事象の確率を感覚的に過大に見積もり、それらしくない事象を過小に判断するバイアス(偏り)が伴います。
上の例でいえば、規則にうるさく神経質という属性が、……
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2. 代表性のヒューリスティックから起きる判断ミスの事例
代表性のヒューリスティックから起きる判断ミスの事例を3つ紹介しましょう。
事例1:AとBが同時に起きる確率をBが起きる確率よりも大きいと判断してしまう
2人の心理学者エイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマン(第1回参照)が考案したリンダ問題と呼ばれる有名な例を紹介しましょう。若いころに社会派学生だったリンダの現在の姿としてありそうな順番に選択肢を並べてもらう問題です。みなさんもトライしてみてください。(参考:Tversky, A. and D. Kahneman, Extensional versus intuitive reasoning: The conjunction fallacy in probability judgment, Psychological Review 90, 1983より作成)
<クイズ1> リンダは31歳で独身、素直でたいへん聡明な女性です。哲学を専攻していました。学生時代は差別と社会正義の問題に深い関心を持ち、反核デモにも参加しました。以下は、今のリンダを説明するものです。ありそうな順に1~8の番号をつけてください。
ここで問題になるのは、6:銀行の窓口係と、8:銀行の窓口係でフェミニスト運動家の順番です。多くの回答者は、6よりも8の方がありそうだと回答しますが、これは正しくありません。窓口係であるという単独事象の確率が、窓口係かつフェミニスト運動家であるという2つの事象が同時に起きる確率よりも小さくなることはありえないからです。
このように、同時事象の確率を単独事象の確率よりも高いと判断してしまう間違いを、同時発生の誤り(Conjunction Fallacy)といいます。同時発生の誤りを犯すのは、元社会派学生にとって、窓口係よりもフェミニスト運動家の方がそれらしいために、8の確率を過大に見積もってしまうためです。
これは、少し考えてみれば気付くことのできる論理矛盾です。しかし、同時決定の誤りを犯してしまう背後には、システム1による早合点があります。実際に、図2に示したように、システム2が強い熟慮タイプよりもシステム1が強い直感タイプの方が、リンダ問題で同時決定の誤りを犯す確率が高い傾向が知られています。
図2:直感タイプの方が、同時決定の誤りに陥りやすい(参考:Oechssler, Roider, and Schmitz, Cognitive abilities and behavioral biases, Journal of Economic Behavior & Organization 71, 2009より(N=1,250))事例2:PCR検査陽性者の罹患(りかん)確率を大きく見積もってしまう
代表性のヒューリスティックによる判断ミスは、より具体的に確率的な判断を求められる深刻な場合にも分かりやすいかたちで生じます。例えば、感染症に罹患しているかどうかの検査結果を見て、……
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第3回:ヒューリスティックのわな(後編)
私たちは、生活やビジネスの場面でさまざまな判断を行うときに、直感、つまりヒューリスティックに頼って判断するためにミスを犯してしまうことがあります。前回は、「代表性=それらしさ」に引っ張られやすいヒューリスティックの危うさについて解説しました。今回も引き続き、ヒューリスティックのわなを取り上げます。今回のキーワードは、目立ちとアンカリングです。
1. 「目立ち」に引きずられる -利用可能性のヒューリスティック
私たちには、目に付きやすい情報にとらわれて、物事の起こりやすさを安易に判断してしまう傾向があります。これを利用可能性のヒューリスティックといいます。
例えば、1990年代後半にアメリカを中心に発生したITバブルでは、社名にドット・コム(.com)を付けるだけで、株価が上がりました。投資家たちは、ITのイメージを喚起させる社名に引き寄せられるままに投資をしていたと考えられます。逆に、コロナ禍の中で、「コロナ」という文字が社名に入った会社が、それだけで大きな風評被害にさらされたことは記憶に新しいところです。
私たちが何らかの判断を行う場合、メモリ(記憶)に蓄えられている情報を思い出して判断材料にします。利用可能性のヒューリスティックの「利用可能性」とは、そのときの「思い出しやすさ」を表しています。
これは、メモリという倉庫があり、その中にさまざまな情報が断片的な荷物として格納されているイメージです。倉庫(メモリ)から荷物(情報)を取り出し、判断材料にします。しかし、全ての荷物を一つ一つ取り出して内容を吟味するほど、私たちの熟慮システム(システム2)はマメでもなければタフでもありません。多くの場合、直感システム(システム1)が、目立つ荷物、つまり利用可能性の高い情報だけを手っ取り早く取り出して判断してしまいます。それが利用可能性のヒューリスティックです。
先の例では、ドット・コムやコロナという、倉庫内に目立つように積まれた情報だけを判断の材料として、その会社のパフォーマンスや業務内容を判断してしまったと考えられます。
情報がマスコミやSNSによって伝えられると、その目立ち、つまり利用可能性は急速に高まるので、人々の判断や行動に強いバイアスを与えかねません。例えば、企業の活動がニューヨーク・タイムズなどの主要新聞で取り上げられるだけで、……
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2. 無関係な初期値に引きずられる -アンカリングと不完全な調整
私たちが何かの数量や価格の目安を立てるとき、その直前に触れた全く関係のない数値に影響されてしまう傾向があります。これをアンカリング効果といいます。アンカーとは船の錨(いかり)のことです。直前の数値が錨になって、判断が引きずられてしまうのがアンカリング効果です。例えば、仮想的な次の実験を考えてください。
実験1:
参加者の皆さんには、自分のクレジットカード番号の下4桁の数値を紙に記入してもらいます。そこにベルギーチョコレートを1箱持ってきて、買値に対し次の2つの質問に答えてもらうという実験です。
このとき、(2)で答えたチョコレートの買値は、(1)で検討した買値、つまりカード番号下4桁の数値の大小とどのように関係してくるでしょうか。想像してみてください。
上の仮想実験は、アメリカのデューク大学の心理学者ダン・アリエリーらが、アンカリング効果を調べるために行った有名な実験を基に作ったものです(アリエリーらの実験では、クレジットカード番号ではなく、社会保障番号が使われます)。
アリエリー実験では、最初に(1)で買うか買わないかを検討した値段が高かった人ほど、(2)で高い買値をいう傾向が示されます。いうまでもなく、(1)の値段は回答者にとってはランダムに選ばれた意味のない数値です。その無関係な初期値がアンカーになって買値が引きずられてしまう、これがアンカリング効果です。
図2は、スウェーデンで行われたアリエリー実験の結果の一部を示したものです。ここでは、ベルギーチョコレートを含めて5つの商品が用いられます。(1)の問いでは、社会保障番号の下2桁をスウェーデンクローナ(1クローナ=約13円)でカウントした価格を使います。(2)で各商品の買値を尋ねる点は上の実験と同じです。どの商品についても、社会保障番号という全く関係のない数値を最初に買値として検討しただけで、買値がつられてしまっている様子が見て取れます。
図2:大きな番号を見た人ほど買値が高くなる(参考:Bergman,O. et al., Anchoring and Cognitive Ability,Economics Letters 107, 2010の結果から筆者作成)アンカリング効果は、実際の取引や交渉に……
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第4回:自滅選択のメカニズム
前回は、ヒューリスティックのわなについて解説しました。私たちの判断や選択は、直感的な認知処理によって歪(ゆが)められてしまいます。今回は、その応用編として、「さき」(将来)よりも「いま」(現在)を優先させてしまう自滅的な行動を取り上げます。キーワードは、現在バイアスと、自滅選択です。現在バイアスとは、いつも「さき」よりも「いま」が重要に見えてしまう認知バイアスのことです。
1. 「目先」に引きずられる-現在バイアス
仕事を後回しにしてしまう、浪費ばかりで貯金できない、ダイエットや節酒、節煙が計画倒れになる、食べ過ぎる・・・。こうした、自分自身の不利益になる自滅的な選択をしてしまうのはなぜでしょうか?自滅選択の背後には、「さき」(将来)の利益を優先させようとするアリ的な自分と、「いま」(現在)の利益を優先させようとするキリギリス的な自分の対立があります。
第1回で紹介した2つの認知処理システムでいえば、直感処理のシステム1(速い思考)がキリギリス的な自分、熟慮処理のシステム2(遅い思考)がアリ的な自分です。このアリとキリギリスの二面性が、私たちの選択を矛盾のあるものにしています。
貯蓄や借金など経済選択の問題でも、ダイエットなど健康管理の問題でも、自滅的な行動というのは、突き詰めていえば、「早く得られる小さな利益」か「遅れてしかもらえない大きな利益」かという、異なった時点間での利益を選ぶ「時間軸上の選択」に特有の現象です。例えば、(A)1万円と、(B)1万50円のどちらを取るかと聞かれれば、どの人も金額の多い(B)を選びます。しかし、以下のような選択の場合はどうでしょう。
Q1:どちらを選びますか? (A)今日の1万円(早くもらえる小さな利益) (B)1か月後の1万50円(遅れてしかもらえない大きな利益)
すると、小さな利益(A)を選ぶ人が出てきます(図1)。こうして、利益発生のタイミングに差があって初めて、小さな利益(A)の選択が発生し、それが、この後紹介する理由によって自滅選択につながっていきます。
図1:今日の1万円or1か月後の1万50円それではなぜ、(B)の大きな利益(1万50円)を選ばない人が出てくるのでしょうか? それは、……
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2. 「アリ」が計画し「キリギリス」が実行するという自滅
将来のことを考えて慎重に仕事や節制の計画を立てても、時間が経ってその計画を実行に移す段階になると、時間割引率が上がり、せっかちさが増します。図2に示すように、先のことを考えるときはシステム2がうまく機能して、アリのように計画します。しかし、実行段階になると、システム1が目前の利益に誘惑され、キリギリスのように衝動に走ります。結果、長期的な利益を考えた面倒な計画はドミノ式に先送りにされ、小さくてもすぐに手に入る利益がその都度優先されていきます。
図2:アリが計画し、キリギリスが実行する例えば、明日には終わらせようと計画した仕事でも、翌日になれば目先の誘惑に負けて仕事を後回しにしてしまいます。こうした後回しや、先延ばしの行動は、現在バイアスがもたらす典型的な自滅行動です。
一般的にいえば、……
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3. 自滅をもたらす現在バイアス
実際に、現在バイアスを示す人と示さない人(または弱い人)では、行動や選択の質が噓のように違ってきます。ここでは、借金、生活習慣病、依存症という3つの自滅選択について、エビデンスを示します。以下に示す4つの図は、筆者が参加した全国規模のウェブ調査のデータ(人間情報データベース、NTTデータ経営研究所、2017年、サンプル数16,703)に基づいています。
図3は、現在バイアスの有無で回答者を2つのグループに分け、負債傾向を比べたものです。住宅ローンを除いた負債の有無と金額を比べると、現在バイアスありグループの方が、より強い負債傾向を示しているのが分かります。
図3:負債の有無と額(参考:人間情報データベース、NTTデータ経営研究所、2017、サンプル数16,703より作成)両グループ間の差は、過剰負債の傾向を比べた図4に、もっとはっきりと出ています。そこでは、世帯所得額の30%以上の借金がある、カードキャッシングをする、クレジットカードによる有利子負債がある、消費者金融の利用経験がある、債務整理・自己破産の経験がある、の各過剰負債項目について、該当する回答者の比率を比べています。どれについても、現在バイアスありグループの方が高い比率を示しています。これらのデータから求めた過剰負債指数の値では、現在バイアスありグループの方が圧倒的に高い値を示しています。
図4:過剰負債者比率(参考:人間情報データベース、NTTデータ経営研究所、2017、サンプル数16,703より作成)図5は、生活習慣病の有病率を、現在バイアスの有無で比べています。まず肥満者、2型糖尿病者のどちらの比率についても、……
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第5回:自滅を避けるには?
前回は、自滅的な選択を引き起こす原因として、現在バイアスという選択バイアスについて解説しました。現在バイアスの下では、「さき」(将来)の利益を優先させようとするアリ的な自分と、「いま」(現在)の利益を優先させようとするキリギリス的な自分の間で矛盾が生じ、それが自滅選択につながっていきます。では、こうした矛盾を克服して、選択の質を改善するにはどうすればよいでしょう。今回は、現在バイアスと自滅選択のメカニズムを知った上で、自滅選択に対処するための方法を解説します。
1. 将来の緩い自分を自覚する
現在バイアスの問題を抱えている人は、何よりもまず、将来の自分が今考えているよりもずっと緩い人間(=キリギリス)だということを正しく自覚しなければなりません。面倒な仕事を後回しにしたいという誘惑に負けないで、今日のうちに仕事を終わらせる人がいるのは、明日になればまた同じ状況になる(後回しにしたくなる)と自覚しているからです。
このように、現在バイアスの落とし穴をしっかりと自覚している人を、行動経済学の世界では、「賢明(ソフィスティケイテッド)」な人と呼び、自覚していない人を「単純(ナイーブ)」な人と呼びます。単純な人と賢明な人では、おのずと選択のパフォーマンスが違ってきます。
現在バイアスの下では、先のことを計画する自分はアリのように将来指向的です。しかし、時間を経て実行する段階になると、こらえ性のないキリギリスに変身します。単純な人とは、キリギリス的な将来の自分を過信している人です。その過信から、単純な人は衝動的な計画外の行動を取ります。ビジネスでも私用でも、約束事をドタキャンしたり締め切りを守らなかったりする人は、単純な人だと疑うべきです。
これに対して、現在バイアスのわなを自覚している賢明な人の場合、大きく2つの点で行動が異なってきます。第一に、将来の自分の緩さを自覚する賢明な人は、計画を立てる段階で、そんな自分でも実行できる計画を立てます(図1)。キリギリス的な自分にはできないような、一見素晴らしいプランは最初から外して、実現できる選択肢からベストの計画を立てるのです。その結果、賢明な人は、安易に計画変更したり、約束をドタキャンしたりするようなことはありません。ブレることがないのです。
図1:将来の緩い自分を自覚して自滅を避ける第二に、賢明な人は、仕事にしても、友人との約束事にしても、今それを先送りにして将来の緩い自分に任せてしまうと、結局は自分のためにならないことを自覚しています。そのために、賢明な人の方が単純な人よりも、何ごとも早く済ませることになります。仕事や節制の後回しという現在バイアスの悪影響が単純な人の場合、そのまま分かりやすく行動に出てしまうのに対して、賢明な人の場合にはそれが緩和されます。
現在バイアスの自覚を持つことによってその弊害が大きく緩和されることは、実際にデータでも確認できます。図2は、以前に実施した時間とリスクに関するインターネット調査2010年(池田科研)の結果の一部です。前回(第4回)と同じように、……
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2. 先の自分を縛っておく-プレコミットメント
自分の緩さ加減が自覚できたとして、効率的に将来の利益を確保していく方法がいくつか考えられます。将来の緩い自分の手をあらかじめ縛っておくプレコミットメント(またはコミットメント)と呼ばれる方法はその一つです(図3)。アリ的な自分が将来の計画を立てる段階で、将来の実行者となるキリギリス的な自分の行動を縛ることができれば、誘惑に駆られても長期的な行動計画が実行できます。
図3:プレコミットメント例えば、計画外の過剰な消費を避けて貯蓄性向(所得のうち貯蓄に向けられる割合)を高めるためのプレコミットメントとして、解約手数料が高くつくような積立貯金の契約を結んだり、資産を不動産や株式など、現金化にコストがかかる資産(流動性が低い資産)にしておくことが考えられます。実際に、セルフコントロール問題の自覚がある人ほど、老齢年金に加入しているというデータもあります。身近な例でいえば、細かいお金をかき集めて1万円札にわざわざ替えるのも、流動性を低めて浪費を防ぐというプレコミットメントのアイデアを使っているのです。
プレコミットメントの手段は、セルフコントロール問題を自覚して初めて利用できます。ただし、その自覚が不完全である場合には、……
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3. セルフコントロールの参照点を上げる
キリギリスとしての自分が頭をもたげてきて、熟慮処理のシステム2(遅い思考)でそれを自制しようとすると、認知的な負荷がかかり、メンタルな消耗(疲労)が生じます(第1回参照)。そのため、セルフコントロールにも限界があります。ただし、同じようにセルフコントロールが必要な行動でも、それがどの程度当たり前の自制として織り込まれているかによって、消耗の度合いが違ってきます。この当然とされる自制の水準のことを、セルフコントロールの「参照点」と呼びます。
セルフコントロールが特に消耗として自覚されるのは、実は自制行動のうちでも、参照点の水準を超える部分だと考えられます。自制を実行していく2つ目の方法は、セルフコントロールの参照点を上げることです。それによって、消耗することなく(または、消耗を意識することなく)セルフコントロールが持続できるからです。
では、どうすればセルフコントロールの参照点が引き上げられるでしょうか。ここでは重要な3つのポイントを紹介します。習慣化、内発的な動機付け、そして社会的な影響です。
・習慣化
自制の必要な仕事をルーティン化し、習慣化することで、より大きなセルフコントロールを実現することができます。この自制行動の習慣には、守れば守るほど強固になる一方で、一度破ってしまうとみるみる効力を失ってしまう自己強化的な性質があります。もちろん、よい習慣をつけるまでは消耗しながら頑張っていく必要があります。そして、ひとたび習慣化に成功すると、それが強固なコミットメントとなり、消耗することなく自制できるようになります。
・内発的な動機付け
強い内発的な動機に基づいて、将来目標にまい進する場合も、同じようにセルフコントロールの参照点を引き上げる効果があります。フロリダ大学のロイ・バウマイスターたちの研究グループは、実験的に金銭的なインセンティブを使って被験者たちのモチベーションを高めることで、セルフコントロールの持続力が向上することを示しています。いってみれば、モチベーションは自制力の代わりになるのです。
ただし、単にモチベーションといっても、……
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4. セルフコントロールの負担を軽くする
自制心に負担がかからないように工夫することも、大きな自滅を避けるのに有効です。
・計画期間を細分化する
限られた意志力の下でセルフコントロールを効率的に行う方法として、計画期間を短くすることが考えられます。キリギリス的な自分をうまくコントロールできない人は、余裕があるときにセルフコントロールをサボって資源を浪費してしまい、段々と先細りになってしまうような行動を取ってしまいます。子供が、お小遣いを早く使ってしまい、次の小遣い日が来るまで辛(つら)い毎日を我慢するのと同じです。私たちにも経験があります。締め切りまで間があるうちはゆっくりしているものの、締め切り間際になると慌ててエンジンをかけるような行動です。
お小遣いをもらう頻度を月一から週一にするとか、締め切りまで1か月ある仕事の進捗確認を1週間ごとに区切っていくなど、行動計画の期間を細分化することは、こうした非効率的な行動に対応するために有効です。経済学の行動原理の一つに、平準化(Smoothing)があります。限られた資源を使う場合、それを少しずつならして消費することで、効率的な使い方ができるという考え方です。効率的なセルフコントロールにも、この平準化が必要です。つまり、締め切り前に徹夜で頑張るのではなく、コツコツと同じように頑張る平準化が必要です。お小遣いをすぐに使い果たしてしまう子供も、締め切りまで遠いとサボってしまう人も、セルフコントロールの平準化に失敗しているといえます。行動の期間を細分化することで、セルフコントロールの平準化が容易になり、平準化が完全にできない場合でも、それによって生じる損害(仕事のむらの総計)を小さくすることができます。
こうしたアイデアは、何らかの制度を設計する場合に有効です。子供のお小遣いの例と同じように、かつて年金生活者には、年金受給日に大盤振る舞いをして、先々で困窮してしまう現象(年金-消費サイクル)が見られました。しかし、1990年に年金給付のサイクルが3か月から2か月に改正されてから、この現象は弱まったことが報告されています(完全になくなったわけではありません)。
・セルフコントロールができる環境に身を置く
キリギリス的な選択をしたいという衝動は、……
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